【8月15日は終戦記念日】東淀川区に残る戦争の傷跡「西淡路(国次)高射砲陣地跡」
1944年(昭和19年)ころ半円形の陣地に建設された、砲台6基と指揮所からなる高射砲陣地跡。
上部のコンクリート部分がそのものらしく、哀愁を感じるたたずまいです。
数年前までは4基残っていたらしいですが、現在はこの1基だけが残っているよう。
高射砲(こうしゃほう)とはwikipediaによると
敵航空機の攻撃から自軍を護るために作られた火砲。普仏戦争で敵の弾着観測気球を狙い撃つため、プロイセン軍が用いた軽量砲架の小口径砲がその祖形である。
1912年にドイツが野砲を改造して使用したのが近代的高射砲の始まりである。主に第二次世界大戦において高々度から侵入する連合軍の戦略爆撃機から軍事施設あるいは人口密集地の都市を守るためにドイツ軍は対空射撃管制装置ウルツブルク・レーダーと高射砲を組み合わせ有効な防空戦を展開した。
とのことで、第二次世界大戦後期には大阪にも空襲があったようなので、その米軍航空機からの襲撃に備えるために作られたものだと思います。
今は…家と見事な融合をみせ、アートな領域に昇華されていますが、当時のことを良く知るヒトから見れば、思い出したくない遺産かもしれません。
この高射砲陣地跡の南には一応抜ける道があるのですが、ここ最近見ないような超細通路で、舗装もされていません。
そもそもこの辺は弾薬倉庫だったそうで、それを改装して民家にしたようです。
北側に向いてみると、以前紹介した内環状線「吹田簡裁前」から淡路に繋がるアンダーパス道路が完成してました【都市計画道路 十三高槻線】の終点が見えます。
ここから十三吹田線として菅原からくるこちらも以前紹介した菅原と淡路駅をつなぐ都市計画道路「歌島豊里線」がけっこうできてきてる。の歌島豊里線に繋がる予定だそうですが、高射砲陣地跡を残して欲しいとい住民運動があったりと、うまくいっていないのかもしれません。
戦争の悲惨さを後世に伝える為に、残すのか、便利にするのか非常に悩ましいところですが、
今日はひとまず終戦記念日ということで、全世界の戦争で亡くなった方に哀悼の意を込め黙祷を捧げましょう。
西淡路高射砲陣地 撤去状況
(ノット)