【地獄の長柄橋なども】戦後70年・大阪大空襲を知ろう講演会に参加してきました
戦後70年にあわせて、1万人以上が犠牲になった「大阪大空襲を知ってもらおう」という講演会が、18日夜、淡路の東淀川区役所出張所で開かれました。
定員50名とのことでしたが、それ以上来られていたのでは?と思われるほどの方が来られていました。
戦時中のアメリカ軍の資料を研究している尼崎市立地域研究史料館の館長、辻川敦氏は「大阪大空襲の概要」ということで、いつ、なぜ、どのようにして起ったのかを解説。
有名なB29大型爆撃機。長距離戦略爆撃を想定して設計され、日本への空襲の際にデビューしたそうです。B29の飛行距離とマリアナ諸島を占領したことで、青森までが攻撃可能範囲になり、日本への空襲が始まったそうです。
大阪大空襲で使われたM69収束焼夷弾。空中で分解して落下することにより広範囲に投下することができ、木造の多い日本の家屋を焼くのに有効だったそうです。
まず優秀なパイロットが中心点に投下。1.2kmぐらいの範囲の火災をおこし、それを目印として未熟なパロットがその周辺を爆撃するという、計画的な攻撃が続きました。
大阪大空襲は全8回あり、東淀川区ではそのうち昭和20年6月7日、6月15日、6月26日の3回。6月7日が一番被害が大きかったそうです。
では、実際に東淀川区の被害状況はどうだったのでしょうか?
尼崎市立地域研究資料館の松岡弘之氏が「大阪大空襲と東淀川区」というテーマで解説されていました。
大正14年に西成郡の一部をもって成立した東淀川区は、大空襲当時、淀川区と分裂前で、資料として現淀川区の内容も入ってしまうとの説明。
6/7は◯の箇所を中心に焼夷弾や爆弾を投下されたようで、東淀川区では淡路ー崇禅寺間が相当な被害があったようです。
東淀川区は、空襲により疎開を含め、57000人近い人口減。
大阪市の学童蔬菜先。東淀川区からは三島郡や豊能郡などへの疎開が多かったよう。
こちらは「大阪大空襲の体験を語る会」で活動されている中島千鶴子さん(当時11才)が、長柄橋での体験画。
逃げ惑う人々、頭が無くなった赤ちゃんを抱き逃げる母親、お父さんもお母さんも無くしたという体験を「地獄の長柄橋」と題し綴っておられます。
戦後70年経ち、身近なところでは戦争は行われていませんが、テロなど常に戦闘が行われている地域も多くあります。憲法改正の動きも気になるとこですし、こうして以前の貴重な経験を聞かせてもらうことにより、「愚かな過ちを絶対に起こさない」という気持ちがより強まる有意義な公演でした。
次回は、ノンフィクションライターを交え、戦争体験者のお話が聞けるようで、
7月18日(土)14:00〜15:30に、同じく東淀川区役所出張所で開催予定。
戦争を体験された方のみならず、戦争を知らない世代の方もぜひご参加して頂きたいものです。
最後には金谷区長も来られ、区では体験談などをまとめたいので、ぜひとも皆様に協力してほしいとお願いされていました。
NHKなどの取材も。こちらにその時の記事が掲載されていました。⇒関西 NEWS WEB「大阪大空襲の講演会」
ちなみに私もちょこっと写っていました(笑)
[map]大阪市東淀川区東淡路4丁目15番1号[/map]
(ノット)