【東淀川区の歴史①】須賀森公園(西淡路四丁目)の楠と楠木正成の関わり
もとは、淡路の鎮守の神さまだった須賀神社があったが、明治43年(1910年)中島惣社に合祀、跡地が須賀森公園となった。
元徳3年(1331年)京都から戦乱を避け刀鍛冶の来国安・国長・国次らが当地に移ってきた。その際に創建した神社と言われる。西淡路は昭和33年(1958年)までは国次町という名称。
※河野工務店のブログより
須賀神社から南へ参道が延びていたが、参道を裂くように車道が通ったので石灯籠だけがぽつんと残る。
建武の頃、後醍醐天皇に逆らった足利尊氏は、天皇を授ける河内国の豪族楠木正成と千早赤阪城で戦った。其の後、正成は兵庫の湊川で戦死。正成の子正行が兵六千騎を率いて、足利尊氏軍三万余騎と四条畷において戦ったがほとんどが戦死した。落ち延びた残党が、君主を忍んで祈念の樟の苗木を植樹したとの言い伝えあるそうです。
楠正成とは?(wikipediaより)
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された
須賀森公園
[map]大阪市東淀川区西淡路4-17[/map]
(ノット)