豊里大橋が出来る前に活躍してた渡し船【平田の渡し】、その跡碑を見に行くと思わぬミステリーに遭遇
豊里大橋ができるまで今の東淀川区と旭区を300年間結び活躍していた渡し船があったそう。
「平田の渡し」といってその記念碑があるとのことで見に行ってきました。
あ、「ひらた」じゃなく「へいた」と読みます。
地元東淀川区側の豊里大橋からすぐのところにありました
こちら
淀川挟んで反対側の旭区側にも記念碑があるとのことで
ついでにちょっと足を延ばして見に行ってみました。
こちらも豊里大橋からすぐのところにあって見つけやすいですね。
・・・え、ちょっと待ってください。
こっちのほうが・・・
豪華ですやん
立派な台座もついていてしかも隣に重厚な説明プレート付き!
東淀川区と旭区の予算の違いなのか!?
いや、そんなはずはない。我らが東淀川区のほうが人口も多いぞ・・・ブツブツ・・
あれっ!?
気になるので「平田の渡し」を調べてみると
平田の渡しは延宝4年(1676)頃に開かれた。大坂町奉行から認可を受けて、手広く渡船業を営んだ土豪沢田佐平太の名からとったものではないかと言われているが、当時の渡しは、西成郡豊里村大字天王寺荘字平田と東成郡古市村大字今市を結んでいたので、この地名からきたとも考えられる。(大阪市ホームページより)
とのこと。
なるほど東淀川区側は地名の「平田」説を採用、旭区側は名前から「平太」という字をあててるもよう。
どちらも同じ「平田(平太)の渡し」でした。
昭和31年発行の『東淀川区史』を読んでみると確かに「平田の渡し」の記述があり、そこには
この渡は初め個人経営であったが、のち請負制となり、昭和二十二年十一月三十日公布の職業安定法に抵触し、翌二十三年四月一日から本市直営となった。
とあります。午前六時から午後八時まで二隻で操業されてたようです。
そして昭和45年3月、豊里大橋の開通により300年に及ぶ歴史を閉じることになります。
この2つの記念碑の場所は大阪市ホームページがわかりやすいですコチラ
これでミステリーのひとつは解決しましたが、
最後にして最大のミステリー
記念碑のグレードの差問題
は歴史ミステリーの闇に埋もれたままとなりました。
それでは!
(こーいち)