【東淀川区】改元記念 元号特集企画!大正初期は柴島が大変化。浪速百景にも描かれる「柴島晒」から水道の街へ。
令和への改元を記念して、明治から平成までの各元号の改元周辺で東淀川区では何が起きていたかを特集する企画。
第二弾は大正の改元、1912年の周辺の出来事を特集☆今回の舞台は柴島です!
柴島といえば、大きな浄水場があるイメージですが、その柴島浄水場が通水を開始したのが大正3年2月。それまで使われていた桜の宮水源地が大阪市の人口増加に対応できず、柴島へと場所を移し、以来大阪市の水道網を支えています。
でも実はそれ以前の柴島は別のイメージで有名な場所だったのです!
それが柴島晒!(くにじまさらし)
柴島晒とはいったい何かと言うと、
江戸時代、大坂の周辺では綿花の栽培が盛んで、それを原料とした木綿業が発達していました。柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、陽にあてることで白く加工するという晒業が営まれていました。
大阪市教育委員会 – 柴島晒ゆかりの地(一部引用)
淀川の流れを利用した木綿加工業が発達し、河川敷いっぱいに白い木綿が広げられていたのです。幕末の大坂の様子を描いた浮世絵「浪花百景」(↑写真)にもその様子が描き出されています。明治の末には年間800万反もの木綿を生産していたそうですよ!
ですが、明治後半から始まった淀川の改修工事で川の流れが大きく変わったり、柴島浄水場の建設によって当地の晒業は衰えてしまいました。
もちろん、今の河川敷ではそのような風景は見られませんが、現在では柴島神社の中には「柴島晒ゆかりの地」の記念碑が建てられて、当時の姿を今に伝えています。
また、東淀川区はその前後で繊維業の会社が多く集まっており、東淡路にある大きな団地エバーグリーンやショッピングセンターエバーレがあったところには以前、「鐘淵紡績中島工場」という紡績会社があり、市内唯一の紡織一貫工場で地域内でも有数の大工場でした。ちなみに鐘淵紡績というのは化粧品などで有名だった「カネボウ」の前身会社です。
区内では今でも繊維業の会社がいくつかありますが、当時は地域の主要産業だったんですね。柴島が江戸から続いた晒業の名所から生活インフラを支える水道の街へと大きく姿を変えたのが大正の時代でした。これから令和の時代にはどんな東淀川区へと変わっていくのでしょうか?
明日(4日)は昭和への改元周辺での出来事について特集します!
柴島晒ゆかりの地はここ
(あわわ)